あとがきにかえて
仲野先生との出会いなおし–「祈り」とともに生きる風景のために
二〇一一年七月、岡山市藤田にある旧朝鮮初中級学校の廃校にて、ひとつのアートプロジェクトが行われた。「朝鮮学校ダイアローグ―もう一つのジモトの『風景』と『記憶』のアートプロジェクト」と題された企画に参加していた私は、生前の仲野誠先生と出会った。そこで先生が阪神・淡路大震災の被災地となった神戸を歩かれていたこと、関西学院大学の大学院にて社会学を専攻されていたことを知った。私たちのあいだには、世代をまたぎながらも互いに相通じあうところがあり、はじめてお会いしながらも、どこか親近感を覚えていた。朝鮮学校/在日コリアンへの関心からも、そのときは「また、お話しましょう」と言ってお別れをしたのだった。
その後、博士論文の執筆や関東方面への異動が重なったこともあり、先生とお会いする機会は訪れず、5年の歳月が流れた。そうして二〇一六年も暮れに迫った頃、鳥取大学地域学部の地域社会論/多文化共生社会論の担当者を募集する案内を目にした。あのときお会いした先生は異動されたのだろうか。気になっていると、就職相談にのってもらっていた同僚から、新聞に掲載された先生の訃報を知らされた。享年五一歳。あまりにも、若い死に思えた。同時に、先生との出会いが、まさに一期一会のものとなってしまった事実と、人の死があってはじめて、私自身が生かされる可能性に開かれたことの矛盾に、私自身、どのように考えればよいか、複雑な思いにとらわれた。
二〇一七年四月、仲野先生の後任として鳥取大学に赴任することになった私は、「まえがきにかえて」を記された堺泰樹さんをはじめ、研究室がなくなった大学に残されながらも、「仲野ゼミ」を続けていた学生たちとご遺族に出会った。さらには「地域学」、「屋台部」、「インドネシアプログラム」、「虹色らくだ」、そして本論集の舞台である「学美(在日朝鮮学生美術展)」の現場に出会った。そこには先生の逸話を伝えてくれる教え子たち、ひいては、現場の方々がいた。先生を失ったことへの空虚感を抱えながらも、数々の逸話を伝えてくれる彼・彼女たちに学ぶことで、私は生前の仲野先生の存在と出会いなおしていった。
仲野先生の一言一言は、彼の周囲の人たちのリアリティのなかに、確実に生きられていた。例えば、「出会った者の責任」「弱さを強さに転換する」「感染する学美」など、仲野先生がゼミ生や現場の方々に伝えていたという言葉を聞かせてもらうたび、私もまた、少しずつ「仲野語録」に感化されていった。それはまるで、今も現場にいる仲野先生に学ばせてもらっているかのような体験の連続だった。ひょっとしたら、先生は、生前に私と出会ったことを覚えていて、ご自身の後任として「そういえばあのとき、朝鮮学校の廊下で立ち話をしたあいつがいたじゃないか」と、そんなふうにして私を「仲野ゼミ」に呼んで下さったのではないか・・・と半ば本気で思ったこともあった。もちろん、真実はわからない。しかし、いずれにしても人と人との出会いとは、どこまでも不思議なものだと思いながら、大学の日常を過ごしていけるようになった。
そうして目にした風景は、ここには記しきれないほど数多くのものがある。日々の大学生活すべてがそうだと言ってもよいくらいだった。例えば、研究室を訪ねてくる学生たちをはじめ、魅力的な屋台が連なった用瀬の街並み、インドネシア・ハムカ大学のあるジャカルタの大渋滞、エスニシティやセクシュアリティに関する悩みを告白してくれる学生のメールや講義感想文、そして何より、本論集の現場となっている「学美」の中央審査会から山陰展本番に至るまでの怒涛の日々など・・・それが何であれ、今の私が見ている風景は、本来、仲野先生が見ているはずのものだったのではないか、いや、仲野先生のまなざしは、今の私自身のまなざしにも重なり合いながら、先生は確かに生きているのではないか。では、先生だったら、これらのひとつひとつに、どんなふうに考えられるのだろうか、応えられるのだろうか・・・そんなことを思う瞬間が、この四年間、私の中に幾度となく到来してきたのだった。
これは形のある人の営みや風景だけではなく、無形のデジタル技術に支えられた場所にも存在した。例えば、多文化共生社会論という新設科目のシラバスを記入しようとした際に、仲野先生の記していた内容が大学のデータベースに遺されていたときには、本当に驚かされた。そこには、「私はこれまでいったい誰と生きてきたのだろうか。そしてこれからいったい誰と生きていけるのだろうか/生きていきたいのだろうか」という問いかけが、この科目に関わるすべての人たちに向けて記されていた。このような有形無形の遺産を通じて、私は仲野先生と本当に多くの「お話」を交わす機会に恵まれた。その対話の積み重なりは、約十年前の朝鮮学校での約束に、仲野先生が応えてくださっているのだと心から思えるものだった。
そうした仲野先生との出会いなおしについて考える手がかりを、先生はご自身の言葉としても遺されていた。「地域学入門」という、地域学部1年生対象の必修講義のアーカイブ資料を集めているときのことだ。生前の仲野先生が、学生たちに向けて「地域の〈つながり〉-これからの地域学への準備として」という題目で講義された録画映像を発見したのだが、その中で、仲野先生は次のように述べられていた。
そもそも〈つながり〉って、何なのかという、ああともいえる、こうとも言えることを考えてみたいんです...地域のつながりって言った場合に、〈つながり〉って、いったい何を意味するんだろうか...例えば、人とのつながりって、一番イメージしやすいことだと思います...お祭りとか祈りとかします。祈りますよね、どうですかね、みなさん。あるいは、亡くなった方に...お盆のときに、民族大移動が起こりますよね...あれって、誰とつながっているんだろうか、って思う訳ですよ...身近な人を亡くされた人たちはわかるかもしれないですけれども、何かある時に「おばあちゃん、守ってください」と思ったり...何かあったときに報告しますよね、ちゃんと。「いつも見ててくれて、ありがとう」。これって何なんだろうか、って言うことですよ。死者とのつながり、ですよね。...
猿と人間を決定的に分かつものは色々あるでしょうけれども...ひとつは墓をつくることではないか、という議論ですよね。人間は墓を作るけれども、猿は墓を作らない...それはどういうことかというと...人間は死者との行き来とコミュニケーションができる...だから...人間にとって死とは、どの時点が死なのか、って色々議論がありますよね。脳死をめぐる議論とかありますけれども。ひとつ僕が面白いなと思うのは、死とは、その人のことを誰も語らなくなった時だ、あるいはその人のことを誰も思い出さなくなった時、あるいは、その人を覚えている人もなくなったとき、それが人間にとっての死なんだ、という考え方があって、それを聞いた時、面白いなあって思いましたね。その人が語られ続けるあいだは、要するに、「わたしのなかに生きている感覚」は、特に身近な人を亡くされた場合は、あるかと思います。そんなんで、いろんな〈つながり〉があるなぁということです。
(二〇一四年四月二三日『地域学入門』の講義映像から引用)
まさに、仲野先生と私の出会いなおしは、仲野先生が数多くの方々の「わたしのなかに生きている感覚」をなくしては、実現できないものだった。いいかえれば、仲野先生のことを「語り」「思い出し」「覚えている」人たちの「祈り」とともに生きている人びとの風景を通じて、私も、私なりの〈つながり〉方をもって、仲野先生が「わたしのなかに生きている感覚」を得ていくことができた。時が過ぎていくことで、「仲野語録」では解釈できない現実も増えていくかもしれない。未だ続くコロナ禍の現状にも、先生は新たな言葉を紡がれることはない。けれども、本論集に収められた先生の言葉にふれることで、「いま・ここ」の日常を先生とともに考えなおすことも可能になるはずだ。
仲野先生の周囲には、こうした祈りに連なる人びとの風景がありました。本論集が手に取られた方々の日常にも届き、私たちとともに仲野先生のことを想う風景が重なり、連なっていくならば、編者の一人として、これ以上の喜びはありません。それが今も「生きている」仲野先生への何よりの供養になるのではないかと、そんな風に思っています。最後に、仲野先生へ、いつも私たちのことを見守ってくださり、ありがとうございます。そしてこれからも、私たちの対話者でいてください。
2022年3月末日
稲津 秀樹 (鳥取大学地域学部教員)