朝鮮大学校(東京都小平市)で開催された、第38回在日朝鮮学生美術展中央審査会を見学された、鳥取県在日外国人教育研究会(倉吉)の仲野誠・鳥取大学准教授(地域学部地域政策学科)が学生美術展に寄せた寄稿を紹介します。
子どもたちの作品
技術的なことは私にはわからないが、まず作品の色彩の鮮やかさや表現方法の多様性が非常に印象的だった。また、子どもたちが感じている自らのリアリティの切り取り方やフレーミングも衝撃的だった。もちろん「〈民族学校の生徒〉と〈日本の学校の生徒〉」というような、単純な二項対立で比較することはナンセンスだと思う。が、それでもあえて申し上げると、民族学校の子どもたちは自分の生活世界を表現するより豊かな力が備わっている(というよりもたぶん「鍛えられている」)という印象を受けた。
私は大学の教員として日頃二十歳前後の学生たちの問題意識や文章に接しているが、その仕事を通して感じるのは「誰かから与えられたテーマや枠組みで自己表現してしまう」多くの学生たちの姿勢だ。これらの大学生は今回の生徒たちとは年齢も表現方法も違うが、多くの学生たちが既に与えられた枠組みの中で、誰かの評価の対象となることを常に意識しながら「自己表現」してしまうこと、そしてそれに無自覚なことを危惧している(もちろんそうでない学生もいる。また、私自身もその中のひとりかもしれない)。
今回拝見した朝鮮学校の子どもたちの絵は、日本の学生の表現方法と少しだけ、でも確実に違っているように思える。自分にとってのリアリティを生き生きと捉え、それを表現しようとする意思――ここに私はある種の希望をみるような思いがする。
上記のことに加えて、子どもたちの絵の丁寧さも印象的だった。作品の隅々にまで神経が行き届いているようだ。「何がこの子にこのような絵を描かせるのか」とか「この絵はどのようなプロセスを経てこのようなかたちになったのか」などという、作品がつくられる背景を想像しながら拝見したが、その背後にくっきりと思い浮かんだのは、生徒たちに寄り添うような先生方の深い愛だ。ひとつひとつの作品の背後に感じられる先生方の愛を目の当たりにし、教室の光景が目に浮かんでくるようだった。
民族学校について
上述のように、生徒たちの作品、そしてその作品の背後にある生徒たちの経験や生活世界、先生方との関係など、様々に想像力をかきたてられたが、この度の見学は民族学校という場の重要性を改めて認識する機会ともなった。
民族学校に限らず、「学校」という場は、世代から世代へとそこに通った人びとの固有の経験や記憶が蓄積していくところだ。だから、学校は(広義の)コミュニティの求心力を持つところであり、なくてはならない場であるはずだ。民族学校はそのような役割が特に強いことを今回改めて感じた。子どもたちのみならず、教職員の方々、そして在日同胞の方々にとっての学校は本当に特別な存在であろうということだ。まさに文字通りの「ウリハッキョ」をみせていただいた。
つながりの創出
社会科学の分野で近年着目されている概念のひとつに「社会関係資本 Social Capital 」がある。これは、近代化の過程で追い求められてきた経済資本や、それを生みだすための効率性や合理性への過剰な傾倒を反省するとともに、人びとのつながりこそがかけがえのない資本であり、それを高めようとする考え方だ。換言すれば、それは「直接的・短期的な利益を追い求めることよりも、人の役に立ち、支えあうことによって生み出される信頼が長期的な合理性につながる」という考え方ともいえるだろう。
この美術展に集まる方々の様子を拝見すると、美術展そのものが社会関係資本を生みだす重要な場になっていると思う。またかけがえのない母校である朝鮮大学校という場に集う先生方の様子からも強いつながりや信頼の創出がうかがえた。
自分たちの仲間を大切にすること、見返りを求めずに人の役に立つこと――これまでは往々にして「青臭いきれいごと」で片付けられてきたこのような人間関係の基本的な作法こそが、これからの社会において希望を生み出す根幹ではないかと思う。特に様々な制度疲労に直面し、いろんな意味で過渡期にあるいまの日本社会がこのつながりや信頼のつくりかた・ありかたから学ぶことはたくさんあるだろう。回数を重ねてきたこの美術展の意義を改めて見直し、これをもっと世に知ってもらう必要があると思う。
(鳥取県在日外国人教育研究会(倉吉)・仲野 誠)