【投稿】在日朝鮮学生美術展という体験 八木亘 /朝鮮新報2018.12.18
自由が溢れる空間
先日、千葉市美術館市民ギャラリーで開催された「在日朝鮮学生美術展」(4~9日)を見に行った。
今回で47回目ということだが、私自身にとっては初体験だった。前知識のない状態からの出会いに大変な衝撃を受けた。
作品を鑑賞する人たち
すでに克服したつもりであったが、心の奥底に先入観が残っていたのかも知れない。
「朝鮮学校=北朝鮮」
「北朝鮮=管理教育」
そんな先入観は会場に入って、すぐに吹き飛ばされた。
所狭しと、陳列されている作品たちは、自由な心で、自由な題材を選び、自由な表現をしたものばかりだった。
それでいてひとりよがりではない、多くの人の鑑賞に堪える「作品」であった。
私には全くなじみのない、どこを評価すればいいのかも分からないものだったが、みんな思い思いに自由に描いていながら、破綻のない生き生きとした作品になっているのが、全く不思議だった。
どうしてこんなことが可能になったのだろうか?
「一体どのような教え方をしているのですか?」と、会場で居合わせた千葉初中の校長先生に尋ねてみた。
「美術の先生がよく仰るのはどう描くかより何を描くか、そして何よりも楽しんで描くことが大事だという事です」という答えが返ってきた。
(なるほど、そうか!)と腑に落ちる思いをした。
同時にこのような教育をしているのは、何も朝鮮学校だけではないはずなのに、どうして在日朝鮮学生の美術が特別に感じるのだろうかという疑問が湧いた。
関係者との記念撮影
きっとそれは「ひとりよがりでない」という部分がカギであるように感じる。
「ひとりよがりでない」というのは、「自分の表現したいことを、きちんと相手に伝えることができる」ということ。確か世界的に評価の高いフィンランドの教育では、「自分の考えを持ち、それを人にしっかり伝えることができる人になること」が大きな目的の一つになっていたと思う。
「さあ自由に描きなさい」という教育は決して珍しいものではないはずだ。
一方、自由に描きながら、ひとりよがりにならない、というのはかなり珍しいことだ。
そこで、朝鮮学校の独自性を考えてみた。すると、たどり着く答えがあった。
それは、確たるルーツに基づいているからではないか。
ルーツはひとりだけのものではない。それも生きていく上で自然に身に着いたルーツではなく、意識的、主体的に身に着けたルーツ。
それだからこそ、自由を抑制することなく、かえって自由を放縦から救い、舞い上がる心を伝統の力でしっかりとサポートすることを可能にしているのではないか―そんな風に感じた。
もちろんこれは私が勝手に考えただけのことで、根拠はない。
しかし、自由な心で、自由な題材を選び、自由な表現を行える教育を受けられる子どもたちのことを幸福だと感じた。
高学年の作品を見ると、政治的な視点を含んだ作品が増えてくる。これについてあれこれ言う人もいるのかも知れないが、むしろ自由な心を持っていれば、当然世の中の矛盾を感じるし、それが表現に反映されるのは当然のこ本太とだろう。
そうでないとしたら、おそらくそこには何らかの抑圧があるのだ。
私はこの自由が溢れる空間にいられて、とても幸福を感じた。
もっと多くの人々に、この空間で幸福を感じてほしい、と切に願う。
(埼玉県さいたま市)